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【COLUMN】 福島・浜通りの魅力や元気を伝えたい 〜荒れた田んぼをアートで蘇らせ、多くの人を巻き込んだ3年間〜

福島県沿岸部12市町村では、震災後の人口減少が著しく、地域の担い手不足が深刻化しています。
RCFは、2018年度より「福島県起業型地域おこし協力隊事業」を推進し、若い世代の地域資源等を生かした起業支援を通じ、被災地域の活性化やまちづくりの活動の促進を目指しています。
この記事では、当事業により地域おこし協力隊として活躍した卒業メンバーのインタビューを通して、被災地の実情や進捗などをお伝えします。

目次

元福島県起業型地域おこし協力隊(楢葉町) 市川英樹さん

<PROFILE>

愛知県豊田市出身。福島県楢葉町在住。タイやインドネシア等で自動車の製造ラインを管理する仕事などに従事したのち、2014年、福島第一原発の廃炉作業員として福島に移住。2015年の春に畑を借り、農のある暮らしをはじめる。以降、主にいわき市を盛り上げるため、浜通り周辺の正しい情報を知ってもらうため、日々田んぼアートを通じて情報発信を実施。その後、RCFが推進する福島県起業型地域おこし協力隊事業に応募し、2018年7月〜2021年6月まで、楢葉町を拠点に地域おこし協力隊として活動。

◆ なぜ福島を選んで起業しようと考えたのでしょうか?

元々、福島に来ることになったきっかけは、2014年に赴任した福島第一原発で廃炉作業をする重機オペレーターの仕事です。

その前は仕事で東南アジアの国々にいたのですが、現地の方に福島の状況を聞かれて、僕は何も答えることができなかったんです。それで、福島の状況をもっと知りたいと思うようになって・・・。それが、2012年のことでした。

そのあと、仕事が空いて、次にどんな仕事をしようかと探していたときにたまたま見つけたのが、福島第一原発の仕事でした。

半年契約の仕事でしたが、この機会に福島に行ってみようと決めたんです。

ーその契約終了後も、福島に住み続けていたんですね。

馴染みの居酒屋で、もう契約を終えて帰るんだという話をしていたら、その居酒屋の大将が「もう帰っちゃうの?寂しくなるな」と言ってくれたんですね。

その言葉が嬉しくて、もう少し福島でがんばってみようと思ったことが発端です。

ー協力隊に応募したきっかけは何でしたか?

協力隊としてのメインの活動は田んぼアートですが、実は協力隊に入る1年前から、いわき市で田んぼアート活動を始めていて、楢葉でも翌年2018年から開始していたんです。

いわき市で実際に活動を始めてみたところ、初年度にも関わらず、あちこちから多くの反響がありました。田植えなどの準備作業には、遠くは関東近辺から来て体験しにきてくださったり、夏ごろのアートの見ごろ時期にも県内外からいろんな方々が見にきてくださったり。

そして実りの秋を迎え、稲刈りのほか収穫祭も行ったのですが、地元の方々と遠くから来ていただいた方々とが交流し、楽しんでいる様子が本当に嬉しくて。そうやって、都会の人と田舎の人が共に豊かな時間を過ごせる場を作れたことに、非常に手応えを感じましたね。

それで、この田んぼアート活動に大きな意義を感じ、続けていきたいと考えていたところ、起業を促進する地域おこし協力隊の募集があるということを、人づてに聞いたんです。その制度を使えば田んぼアートの活動を事業化できると知り、応募に至りました。

2017年、いわきFCのロゴを描いたいわき市での田んぼアート。いわきFCの選手や監督も来てくれた

◆ なぜ田んぼアートを始めようと思ったのでしょうか?

福島第一原発で働いていた当時、現場に向かうバスの窓から見える荒れ果てた田んぼがずっと気になっていたんです。

すでに、雑草だけでなく雑木も生えて林のようになっていたところもあり、本当にここが田んぼだったのだろうか、と疑問に思ってしまうような光景が広がっていました。

「福島の米」と書いたライスセンターを見ても、周りには田んぼが見当たらない。でも元は田んぼだったのかなって・・・。

自分で田んぼアートを始める前に、同じ福島の田村市で行われた、田村初の田んぼアートの田植え体験に参加したことがあって。

東京や横浜から家族づれが福島に泊まりで体験しにきていて、そこに可能性を感じたんです。

僕が福島に来たころは、ちょうど東京オリンピックの2020年開催が決まった後でした。

「復興五輪」という言葉もありましたが、その流れに乗って、福島でも田んぼや畑が再開されているよ、というのを全世界に発信したくて、田んぼアートを始めました。

ー未経験のところから、どのように田んぼアートを進めていったんですか?

いわき市の山田町にも田んぼアートを行っている団体がいて、そこにお伺いして方法を教わったり、一緒に作業させていただいたりしていました。

デザインや測量はいわきのデザイン会社に協力していただいています。

楢葉町については、協力隊になる前に知り合いが食を通じた交流の場作りとして、小料理屋(現在は発酵惣菜居酒屋)をオープンしまして。2017年、楢葉町が帰還困難準備区域から解除されて2年経ったころでした。

そこを僕も手伝わせてもらいながら、地元のお客さんや農家さんと仲良くなり、手伝っていただいたり、いろいろ物資や資金などの寄付もいただきながら、初年度(2018年)の実施に漕ぎ着けました。

協力隊の着任が年度はじめに間に合わず、7月からになってしまったので、田植えは入隊前の実施でしたが・・・。

2018年、楢葉町での初めての田んぼアート。楢葉町のキャラクター「ゆず太郎」



2019年の楢葉町での田んぼアート。黄色い部分は「黄色大黒」という品種。冷涼な気候でしかこのような美しい色は出にくいという

ー荒れ果てた田んぼが気がかりだったことが活動のきっかけでしたが、田んぼの開拓から手がけていたのでしょうか?

その時々によりますが、なかには先に試験栽培を始められていた田んぼを借りた場合もあれば、震災後そのままだったところをお借りして、石拾いから始めた田んぼもあります。

ー協力隊の3年間では、田んぼアートを通じて、具体的にどんな活動をしていたのですか?

田植えや稲刈りのほか、ドローンを活用して映像を制作したり、収穫した米を販売したり、米を活用した加工品(米粉ピザ、カレー、ライスバーガーなど)を開発したりと、いろんな世代の方に楽しんでいただける企画を考えて実行していました。

2年目の2019年に実施したイベントの総参加者数は、490人にも上ります。

3年目の2020年はコロナ禍でしたが、疫病封じの妖怪として話題になった「アマビエ」を田んぼに描いたところ、かなり話題になりまして。

絵柄がもっとも美しく映える8月には、連日100人、多いときで300人ほど。

福島県内全てのTV局・ラジオのほか、全国の新聞・TVやスポーツ紙、業界紙にも取り上げていただいたんですよ。おかげで、北は青森、南は四国からなど、コロナ禍の合間を縫って、本当に多くの方に来ていただきましたね。

田んぼアート×原発ツアーという企画も2年連続で行いました。毎回約20名、述べ約40名の方に参加いただき、楢葉町と、いわき市の田んぼアートを見た後、楢葉町の飲食店で田んぼアート米をたべていただき、福島第一原発を視察していただきました。

SNSやメディアを通じて話題になったアマビエの田んぼアート(2020年、楢葉町)



田んぼアートの絵柄をパッケージに配した新米の販売も


◆ 地域おこし協力隊の3年間で、特にどんなことが印象に残っていますか?

日々活動するなかで、SNSを中心に発信させていただいてきました。田んぼアートにまつわることはもちろん、福島で出会った人の魅力や元気など・・・。

もし僕が地元にいたら、自分のことや地元のことって発信しなかったと思うんです。地元の良さなんて、気づきもしなかったんじゃないかな。

でも、外から来て福島に住んで、福島で出会った素敵な人たちのことを発信させていただいたし、福島の自然や街の魅力を見つけて、自分目線で発信を続けることができました。

ーSNSの影響力を感じることも多くありましたか?

そうですね。

先ほどのアマビエを描いた田んぼアートもそうですが、特に強烈に記憶に残るのは2019年の台風19号です。

当時、福島でもいわき市のほか、広野町、郡山市、本宮市など被害が多く発生していました。

そこで、SNSを通じて、土囊袋が足りないとか、断水していてポリタンクが足りないとか、現場の状況を発信していたところ、全国から3日間で4000枚も土囊袋が届いたり、ポリタンクも100個くらい全国から送っていただいたんです。

もともと富岡町出身で、いわきに避難居住していたため、いわば二重で災難に遭ってしまった方も多くいて・・・。その人たちのところに土囊袋やポリタンクを持っていくことでお役に立てて、良かったなあと思っています。

また、当時福島だけでなく長野、千葉も台風の被害があって、ボランティアも不足していたのですが、発信させていただいたのをきっかけに、東京や色んなところから多くの方がボランティアに駆けつけてくださいました。

ー人とのつながりのなかで、多くのことを得られたのですね。

そうですね。3年間で得たものはプラスになったことばかりです。人脈もそうですし、ポジティブに未来を創っていく考え方も。

実際のところ、僕はどちらかというとネガティブ思考の人間です。

一方で福島の方々は、地震や津波があったり、家がなくなったり、色んな大変なことがあっても、それらを乗り越えて、未来を創ろうとしていて。

僕のような外から来た人間を受け入れてくれて、逆に手伝っていただいたり、応援してくれたりしてくださった人々の温かさに出会えたことが、僕にとって一番大きなことです。

2021年、楢葉町での稲刈り


◆ 時間の経過とともに、地域状況や復興の様子はどのように変化していると感じますか?

2014年に福島に来た当時、楢葉町のJビレッジ(サッカーナショナルトレーニングセンター)までしか一般の人が入ることができなかったので、Jビレッジから先は誰も人が住んでいないから、僕らが仕事から帰ってくると真っ暗で、本当に寂しい状態でした。

その後、楢葉町も2015年に帰還困難区域が解除され、2018年にJビレッジが再開して、少しずつ街に明かりが灯り、山のようにあった放射性廃棄物のプレコンバッグが少しずつ減っていきました。

そうして、人が少しずつ戻ってきたり、色んなところが再開したり、新しいものができたり、道ができたりお店ができたり・・・。

ーちょうど協力隊に入隊したタイミングが、色んなものが戻り始めたタイミングだったんですね。任期中の3年間での復興の変化、地域の変化はどのように感じますか?

最初は戻ってきた方は60代以上の年配層が多かったのですが、この3年間で、若者や移住者が多くなったと感じています。

子どもを持つ30代夫婦が戻ってきて、子どもが幼稚園や保育園に通っていたり、移住者が復興関係の仕事や農業を始めたり、といったケースをよく見かけます。徐々に活気付いていますね。

◆ 協力隊での経験を生かして、今どういうことをしていますか?

2021年も田んぼアートを実施しましたので、その稲刈りイベントを実施したり、田んぼアートの新米や米粉を活用した商品でマルシェに出品したりしてきました。

田んぼアート米を麹にして、醤油麹で味付けした米粉発酵唐揚げや、おにぎり、ライスバーガーなど。

たとえば米粉唐揚げは、「今まで食べた唐揚げで1番美味しい」と言われてリピーターになった方もいらっしゃるんですよ。

お米そのものだと全国各地で作られているので、こういった加工品で興味を持っていただけるものを今後も開発していきたいと思っています。

10月のマルシェ出店ではハロウィンのコスプレも



好評メニューの1つ、米粉の発酵唐揚げ


◆ 卒業から約半年が経過して、逆に「協力隊期間中にやっておけばよかった」と思うことはありますか?

3年間はあっという間で、田んぼアートの活動と小料理屋の手伝いにほとんどを費やしたかな、という感覚があります。

もっといろんな地域の協力隊の方とつながり、様々な各地の活動を学べたら、もっと面白かったかな、と思います。

◆ 現在、コロナ禍で先が見えない世の中ではありますが、もし何も制約がなかったら・・・この先、どんなことを実現していきたいですか?

ずっとやりたいなと思っていることなんですが、誰でも来れる居酒屋をやりたいんです。

できたら、今まさに復興しようとしている地域で。楢葉町、富岡町、浪江町、そしてこれからだと大熊町や双葉町。

ー「誰でも来れる」というところに、どんな思いが込もっていますか?

僕も福島にきたときは誰も知り合いがいなかったけれど、飲み屋や飲食店でたくさんの人とつながり、そしてそういった人々から、いろんな面白い物事やイベント、移住先の物件などを紹介していただきました。

今ここにこうして移住しているきっかけの多くは、そういったつながりのおかげです。

そんな風に、お店を開いて色んな人々をつなげていけたら、僕みたいに福島の新たなファンになり、まちをさらに元気にしようとする人もでてくるのかなと・・・。

福島の人は、本当にいい人が多いです。だから、もっと紹介できる場所やつながりをつくっていきたいと思っています。

市川さんの発信で、いつも色んな仲間が駆けつける(2019年の活動の一コマ)


ー今、米作りや米を使った加工品作りにも取り組んでいますが、提供するメニューにはどんなイメージがありますか?

自分自身が糖尿病を患っていることもあり、健康によいもの、というのが第一です。

そして、顔の見える食材ですね。魚も野菜も、つながりのある漁師さんや農家さんのものを出したいなと思っています。

◆ 関連リンク

プロジェクト福島田んぼアート(YouTubeチャンネル)
市川英樹さんのインスタグラム(@ichikawa__hideki)

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