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メンバー
向野 修得

釜石と東京。若者と大人。間(はざま)から、現地で主役を支える

プロフィール
広島県出身。大学院卒業後、団体草創期の2011年5月にRCF参画。仮設住宅周辺環境調査やUBSグループ コミュニティ支援プロジェクト、Google イノベーション東北などのプロジェクト立ち上げに関わった後、2015年よりUBSプロジェクトメンバーとして釜石に常駐。現在は高校生キャリア教育事業「釜石コンパス」や、Airbnbとの体験型民泊推進事業など、釜石や近隣自治体における複数事業を担当。趣味はテニス、音楽。(本記事は2017年9月4日掲載日時点での情報です)
社会を良くする「対症療法」ではなく「根本療法」である社会事業に魅せられた
私は2011年5月にRCFに参画しました。その少し前、巷でNPOや社会起業家といった存在が注目されつつあり、その考え方やアプローチ方法に魅力を感じていました。何か問題が起こったらそれを鎮める「対症療法」ではなく、仕組みを変えることで課題の根源を解決する「根本療法」。1度きりの人生で1人の人間が1人の力でやれることはわずかですが「対症療法」よりは「根本療法」であれば1人の力でも大きな結果につながるのでは。と考えたのです。

東日本大震災発生後、4月に「つなプロ」という被災者とNPOとをつなぐプロジェクトで1週間ほど南三陸町で活動しました。大きな余震が起きてしまい、十分に活動できないまま帰京することとなり、引き続き東京から何か関われないかと思っていたところ、「つなプロ」リサーチをしていた藤沢(現:RCF代表理事 藤沢烈)がSNSでスタッフ募集をしているのを見かけて、RCFに応募しました。「自分の中で区切りがついたらRCFを離れよう」と思いつつ、気がつけば現在に至っています(笑)。

RCF参画当初は東京を拠点にリサーチや事業企画を担当していました。避難所から仮設住宅に移行する中での周辺環境の調査分析、企業へのCSR・CSV事業企画の提案、講演資料作成などが中心でした。
現場を深く知りたくて、釜石に飛び込んだ
2012年8月からは「UBSグループ コミュニティ支援プロジェクト」(以降「UBSプロジェクト」)の一員になり、本プロジェクトの実施地であった岩手県釜石市に2015年から常駐(在住)しています。

釜石への常駐を決めたのは「現場での経験が不可欠」いう認識があったためです。

それまでも、釜石含め被災地各地には頻繁に足を運んでいましたが、やはり「通い」と「在住」とでは得られるものが違う。企業とのコミュニケーションでは「本物の経験」すなわち2ヶ月でも3ヶ月でも、住んだことがある人がその視点で語っているか、で説得力が全然違うんです。

また当時、UBSプロジェクトは5ヵ年計画の3年目にさしかかっていました。コミュニティづくりの「その先」を検討しており、より現地の状況・人に寄り添う取り組みを考える必要がありました。私も、東京から現地メンバーをサポートするだけでなく、同じ目線で現地を見て、考え、チームとして取り組みを作っていきたくなりました。

現地メンバーとUBSの方々と一緒に考えて作り上げたプロジェクトは、結果的に2016年末まで延長した取り組みとなり、後述の「KAMAISHIコンパス(高校生に対するキャリア教育授業)(以下、釜石コンパス)」など、次につながる事業も生まれました。
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RCFが取り組む「地域間・セクター間を連携するプロジェクト」では、「東京と現地とのコミュニケーション、意識のすり合わせ」がとても大切です。東京では現地における細かいプロセスまで共有しきれないですから、ストレートに成果が生まれるようなイメージを少なからず抱きがちです。

一方で現地側は、例えば関係者を説得して集めてキックオフしたり、リーダーとなる人間と飲みながら話をしたり、様々なしかけを積み重ねたり、議論を軌道修正したり、といった「コミュニティづくり」の細かい下積みプロセスがあります。

これらの細かいプロセスは、なかなか東京側に伝わりにくいのですが、積み重ねが花開けば、化学反応を起こして急に大きな成果につながることもあります。

RCFの介在価値のひとつはセクターとセクター、東京と地域、いろんな間(はざま)に立って、双方のシナジーを生み出すこと。なかなか伝わりづらい、地域での「下積み」状況をしっかりクライアントに伝え、我慢して伴走していただいたり、逆に現地に対しても、心折れず頑張り続けられるよう支えたり、東京側を代弁して言うべきことを言い続けたりするのも、RCFの役割です。

UBSプロジェクトが成功で終わったのは、現地側によるさまざまな積み重ねの大切さをUBSの皆様が理解してくださったため、しっかり化学反応を起こせたことが大きいように思います。
私の目に映る釜石は、危機感と希望とが渾然一体となったポジティブな町
釜石に住み始めて3年弱。釜石という町はいい意味で、混沌とした町。人口減少の危機感や悲壮感がベースになっている町が近隣に多いなか、釜石はどこか楽観的に希望を感じている人も多く見えます。単にそういう人たちとの接点が多いだけかもしれませんが。

現在、釜石で行っている活動のひとつ「釜石コンパス」では、高校生が社会人との対話を通じて、価値観や生き方の多様性を知り、進路をより深く考えるきっかけを作ろうとしています。

そこでは高校生の想いを聞くことも多いのですが、最近の高校生は釜石が好きで、釜石に何か恩返ししたいし、でも自分も学びたいから、まずは市外に出ようと思っている、など、地元に対する気持ちが強い子も少なくないと感じています。

一方で、まちづくりを一緒に取り組んでいる、私と同年代やその上の世代の方々からは「自分が高校生の頃はとにかく早く釜石を出たいと思っていた」ということを聞くことが多いんです。今の10代の子たちは、震災からの復興を経験したことでこの街を見つめ直すきっかけになったのではないかと思います。

釜石には釜石高校、釜石商工高校の2つの高校があり、前者の生徒は9割が進学のため釜石を離れ、後者も3-4割が市外に就職します。実際「市の事業として、より注力すべきは釜石に残る人材ではないか」という意見もあります。

ただ、彼らが市外から釜石に関わり続けたり、何かのきっかけで釜石に戻って来るとき「釜石コンパス」で関わった地域の人たちや市の思いを理解し、街を後押ししてくれる可能性もあるのではないか

「将来の関わりの種」をまくことは、今後の人口減少社会においてとても大切な視点だと考えます。

また「釜石コンパス」を通じて、高校生たちの積極性や発信力も高まっているように感じます。被災地を訪問する企業ボランティアとの交流や地域イベントへの参加などに前向きに参加してくれる生徒が増えていると思いますし、学校側も活動を理解してサポートいただけていますね。
私が考える、社会事業コーディネーターとして必要な3つの素養
素養の1つめとして挙げたいのは、「自分の意見を持って、ちゃんと人と向き合えること」。現地の方からすれば、RCFの名刺を見ても何の団体かよくわからないですから「あなた自身は何を思って、何をしにここへ来たのか?」を問われるシーンが多いです。RCFとしての立場、自分なりの意見、そして地域の皆さんの立場。それぞれをしっかり捉えながら相手とじっくり向き合い、相手を信じて進むべき道を見つけ出していく営みが、コーディネーターの技量だと考えています。

もちろん、既存のプロジェクトに途中から参加して、いきなり当事者意識を持つのは難しい。しかし、だからといって「私は言われた仕事をやるだけです」ではダメ。「この事業が目指すところ、クライアントや地域のニーズ、それらが取り組みと乖離していないか」を考えたり、抱え込まずに周りとどんどん意見交換しながら自分事にしていく、そういった姿勢の人が、RCFに来ていただけると嬉しいですね。

2つめは「先方の期待を上回る努力・想像をすること」。例えば誰かにヒアリングに行くとしても、自分の聞きたいことだけ聞いて帰るのではなく、先方に貴重な時間をつくっていただく以上、相手にも有益なものを返せるよう準備する。学生時代に接客のアルバイトをしていた際の職場のホスピタリティ意識や、RCFに入ってからの上司の意識・考え方の影響もありますが、この人となら安心、また一緒に仕事をしたいと思われるような仕事をしたいと思っています。

3つめは「細部に気をつけること」。もともと自分が凝り性、というのもありますが、藤沢やお世話になった上司からも、資料を細かく作りこみ確認するよう徹底されました。情報の確かさはもちろんの事、誤字脱字、レイアウトなど。「細部に神が宿る」は本当だと思っていて、とても大切にしています。
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「釜石にいつまでいるのか?」というのを考えた時、2019年のラグビーワールドカップは釜石にとって1つの転機、区切りでしょうから、釜石でそれを見届けたいなと思う一方、長くいることが良い、ということも違うと思っていて。

地域課題を当事者意識を持って捉え、地域の人達とともに汗をかくのがコーディネーターの役割ですが、一方、同じ目線になりすぎてはRCFの介在価値は薄れてしまいます。「主体となるのは地域の皆さんです」ということもセットで伝えなければならない。「今は伴走できますが、私はいずれこの地域からいなくなる。主役は現地の皆さんです」ということを意識的に伝えています。

区切りを決めて、釜石の経験を活かして東京や別の地域で新しいチャレンジができたらいいかなと考えています。ただ、まだまだ釜石でという可能性もありますが。

いつかは地元の広島に帰ることは決めているのですが、それまでにいろいろな地域で、たくさんの面白い仕事を経験していきたいですね。