卒業生
佐藤 淳
「社会の変え方」を変えたい。社会起業家の志を受け継ぐ存在に、俺はなる。
- 神奈川県出身。2013年10月にRCF参画。「WORK FOR 東北」事務局勤務後、代表直下で各種新規系業務に携わり、現在は新公益連盟事務局を担当。好きなことは自分と違う人と会うこと、体験すること。日本おせっかい学会副会長。(本記事は2017年6月8日掲載日時点での情報です)
- 憧れのソーシャルセクターに関わり、「このままでいいのか」と感じた問題意識
- 私が大学時代に関わっていた活動のひとつに難民支援があります。途上国ではありません。日本国内での活動です。
日本には「日本に難民はいない」「国内にはいても、自分の身近にはいない」と思っている方が、少なからずいます。ですが、アジア圏や中東圏を中心に、日本には多くの紛争地帯から、難民がやってきます。日本は安全、住みやすい、という情報を信じて。日本では世界各国から逃れてきた難民が約2万人暮らしていますが、日本での難民の認定、知り合いがおらず、日本語も、日本の法律や暮らし方も知らない方が日本で生活していくのは、大変困難なのが実情です。
この問題に対し、弁護士団体やNGOが頑張って、在留許可取得支援や認定後の生活支援などに取り組んでいるのですが、在留許可は殆どおりません。(ちなみに2015年に難民認定を受けた方は7,586人中たったの27人です)
また、人によっては入国管理局によって施設に収容される場合もあり、私が会ってきた在日難民の方々は、いつ施設から出て家族に会えるかもわからない、衛生的にも悪い状況で精神がすり減る日々を過ごしたと話していました。
そんな現実が、日本にあります。なのに、あまりにも知られておらず、私にとっては、このまま支援し続けても「10年後にこの状況が大幅に改善できている」イメージが持てないのが、正直なところでした。 - ***
私がソーシャルセクターを初めて認識したのは高校2年。図書館で海外での緊急災害援助について書かれた本に出会い「社会を変える事が『職業』になる、生き生きして仕事している」と衝撃を受けました。通勤電車で疲れた顔をした大人になりたくなかった自分が「ソーシャルセクター」という世界の扉を開けた瞬間でした。
それから高校卒業後、憧れのNGOや国連機関、社会的企業などに関わるうち、日本におけるソーシャルセクターの現実も知りました。
「給料が低いから、挙式や子どもを持つことは諦めている、でもやりがいはある」というNGO職員。
NPOが掲げるビジョンがあっても、それに対する目標とプラン・進捗が不透明。
熱意あるソーシャルセクターの職員が何十年懸けて取り組んでいる、それでも当事者の状況やその問題を生む社会的な構造自体に変化をもたらせない。
この互いに報われない状況に対し「社会の変え方」自体に問題意識を持ちました。
大学在学時は、社会を変える難しさは認識しつつも、じゃあどうすればいいのか、そして自分の役割は何なのか、を模索する日々でした。冒頭の難民支援活動のほか、企業のCSR監査、模擬国連委員会、国際平和映像祭の立ち上げなど、20団体ほどNGO・社会的企業に関わり、日中韓青少年国際交流事業やアドボカシー実践講座など、30ほどのプログラムに参加してきました。
そのなかで、社会課題の本質的な解決には、ソーシャルセクターや行政だけが頑張るのではなく、企業や市民をも巻き込んだマルチセクターかつ学際的な取り組みが重要なこと、そして、ソーシャルセクターはその様々な主体の「コーディネーター」となることが有効ではないか。という気づきに至ったのです。 - 初めから「コーディネーター」を志向してキャリアをスタート
- 在学時の数々の活動を経て、異なる主体で1つのビジョンを描き・互いの強みを生かして協働する「コーディネーター」の面白さに気づき、この役割を担う仕事を目指すことに決めました。
とはいえ、当時は「コーディネーター」という職業の求人はありませんでしたし、またビジネス経験をちゃんと持ってからソーシャルセクターに入りたかったので、ITベンチャーに新卒入社し、流通業界のシステムの保守運用に従事しました。
小さいですがユニークな会社でした。「3年で辞めます。会社とは別に活動もします」と社長に言ったんですが「それでもいいから」と。新人研修で劇団のワークショップに参加したり。なにより社員や出向先の皆さんが、私のやりたいことや社会課題の話を、興味深く受けとめてくれて、すごく嬉しかったです。
そんな中、2011年に発生した東日本大震災後、岩手県で開催されたキャンプに運営のお手伝いとして参加する機会がありました。NPO、企業、行政、住民と様々な人たちがそこにいて、これまでにない協働の動きが「東北」から始まろうとしている、と感じたちょうどその頃、RCF復興支援チーム(現・RCF)の採用説明会があることを知りました。
私の友人がRCFでインターンをしていた縁で藤沢(RCF代表理事)やRCFのことはもともと知っていたんですが、説明会後の飲み会で藤沢と会話して、藤沢の考えやRCFの取り組みに、とても共感しました。それまでずっと思っていた「もやもや」が、すっと晴れていく気がしました。
RCFに入り、まず、東北3県の自治体などに対しビジネス経験を持つ方をマッチングする「日本財団 『WORK FOR 東北』」の立ち上げに参画しました。
もうとにかく毎日が楽しかったですね(笑)。復興庁事業としておそらく国内初のユニークな事業の座組形成。現地の自治体は勿論、復興庁や復興局、日本財団、RCFや各県の連携復興センター、経済団体など、ステークホルダーには熱い想いを持った面白い人がたくさんいて。
私は、自治体側の人材募集要件を組成して首都圏の説明会などでマッチングする担当でした。自治体の仕事は、ソフト分野の新しい取り組みが多かったですね。一次産業の復興として商品開発・ブランディング・販路開拓のサポートなど、これは面白いな、楽しそうだな、と、「お勧めできる面白い案件ばかりだね」と同僚と話していたほどです。
その後異動して、新規事業立上げなどをいくつか経験し、今は新公益連盟(新公連)事務局運営をはじめ、新しい社会課題に対する座組形成などを担当しています。 - 「公私がつながっている」ことが、自分の強み。社会起業家の志を受け継ぐ存在でありたい
- RCFには多様なコーディネーターが活動していますが、私は自分の人脈をいわば「強み」として生かして新しい「共創」を構想、企画し実行することに、多く取り組んできました。
「共創」と言うのは簡単ですが、各組織の歴史や強み、個々人の問題意識や人柄などをよく知っていればこそ。この人たちとこの人たちをつなげたら絶対に面白い、みたいなものがぱっと思いつく。仕事で取り組んでいるプロジェクトと、自分が今までプライベートでやってきたことがリンクすることも多いです。
私の今の夢は 「社会の変え方を変える」ことです。そこに「仕事」も「プライベート」も紐づいています。
なので、プライベートで仕事関係の人とプロジェクト企画したり、世界中の先進的な知見を得ようと内閣府主催の「4か国合同NPOマネジメントフォーラム」やアメリカの社会的企業のコンサルティング会社のFSGなど主催の”Collective Impact Convining”などに参加しています。
「やりたいこと」と「やっていること」が、つながっているから面白いし、公私共に懸けているので、それが強みになっていると自負しています。
代表的なのが、いま事務局を担当している新公益連盟(新公連)。新公連は、2016年初旬に設立され、全国80以上の社会的企業などが加盟する連盟組織です。「コレクティブ・インパクト」(※)と呼ばれる、世界先端的な社会課題解決手法のモデルづくりや企業・行政等との連携企画実施、政策形成などを目指しています。それは「社会の変え方を変える」ことそのもの。
子どもの貧困に関する協働事業、人材大手の会社とのソーシャルセクターへの転職・プロボノ人材の流入促進、某自治体とNPOとの連携模索の意見交換会(首長と各部署の係長級の人たち)、ベンチャーキャピタルへのピッチイベント、複数の政党よりお声がけいただいての政策提言や、厚生労働省 塩崎大臣とのイクボス宣言など、設立1年半以内で20以上の取り組みを行いました。
- でも、私自身はまだまだ全然勉強が足りない。
- コーディネーターが当事者以上に知識や情報を持つことは難しいですし、立場上、ある程度客観的・俯瞰的な視点をキープすることも大切な時もありますが、やはり自分が取り組む社会課題に対して「どれだけそれを体感値として知っているか」が重要と考えています。そうでないと薄っぺらい事業しか作れませんから。取り組む課題について勉強し、当事者の方、長年その課題に関わっている方々の想いを感じることが、まだまだ足りないと自覚しています。
私が尊敬しているのは、世界的な紛争解決ファシリテータ―であるアダム・カヘン氏。彼は1992年、30歳のときにアパルトヘイト政策廃止宣言後の南アフリカへ赴き、今後の国づくりを担う各ステークホルダーの代表者(それまで対立していた方も含め)を集めた合宿を開催しました。彼はファシリテーターとして、今後の国が向かう複数のシナリオをまとめあげました。
彼が大切にしているのは、エンパシー(共感)。それぞれの立場や視点によく共感し、それぞれの想いを反映したコモン・アジェンダ(共通のビジョン)にまとめ、フラットに対話を進めながら、各代表者がその後の行動に向かえるよう道筋をたてていく。
ただ、私の場合はその「ファシリテーション」で終わりではなく、その後の「プロジェクト」も一緒に関わり、社会構造を変えるほどの社会的なインパクトを生み出し続けていきたい。ファシリテーションと、プロジェクト推進、その両方ができるのが、私の「コーディネーター」の理想像です。コーディネーターが当事者以上に知識や情報を持つことは難しいですし、立場上、ある程度客観的・俯瞰的な視点をキープすることも大切な時もありますが、やはり自分が取り組む社会課題に対して「どれだけそれを体感値として知っているか」が重要と考えています。そうでないと薄っぺらい事業しか作れませんから。取り組む課題について勉強し、当事者の方、長年その課題に関わっている方々の想いを感じることが、まだまだ足りないと自覚しています。
私が尊敬しているのは、世界的な紛争解決ファシリテータ―であるアダム・カヘン氏。彼は1992年、30歳のときにアパルトヘイト政策廃止宣言後の南アフリカへ赴き、今後の国づくりを担う各ステークホルダーの代表者(それまで対立していた方も含め)を集めた合宿を開催しました。彼はファシリテーターとして、今後の国が向かう複数のシナリオをまとめあげました。
彼が大切にしているのは、エンパシー(共感)。それぞれの立場や視点によく共感し、それぞれの想いを反映したコモン・アジェンダ(共通のビジョン)にまとめ、フラットに対話を進めながら、各代表者がその後の行動に向かえるよう道筋をたてていく。
ただ、私の場合はその「ファシリテーション」で終わりではなく、その後の「プロジェクト」も一緒に関わり、社会構造を変えるほどの社会的なインパクトを生み出し続けていきたい。ファシリテーションと、プロジェクト推進、その両方ができるのが、私の「コーディネーター」の理想像です。 - ***
2020年まであと3年。そのとき、私は31歳。
それまでに、一流のコーディネーターを目指して精進して、おこがましいようですが「ちゃんとバトンを受け継げる人になりたい」と思っています。
社会課題解決は数年~10年程度では終わりません。「社会を変える」には、先人からバトンを受け継ぎ、続けることが大切です。
日本でNGO/NPOという存在を生み出した方々、社会課題解決にビジネスの考え方・マルチセクターでの協働を取り入れた方々の偉業のおかげで、私の学生時代は「NGO/NPO」「ソーシャルビジネス」「CSV(Creating Shared Value)」という言葉が「知っていて当たり前」の言葉になっていました。
「じゃあ、それを継ぐ私の世代の役割は?」と、問い続けています。私の生まれた1988年は昭和と平成の変わり目でもあり、新しい社会の変え方を確立する世代だ、と、勝手に思っています。
私は先達者のバトンをきっちり受け継ぎ、コレクティブ・インパクトのような新しい社会の変え方を「当たり前にする」ことを、一生涯かけて探求したい。
そのためにも「こいつならバトンを受け継いでもいいな」と思ってもらえる存在になりたいし、いま新公連で取り組んでいるものを、ちゃんと次の世代に渡せるようにしたいですね。それができれば、社会の変え方はしっかり変えられる。それをリードできる存在に、自分はなっていたいです。